5)「鎖骨をスケッチする」、そして「鍼の先で鎖骨に触ってみる」ことの大切さ

 

 「今後は教育に専念したい」と宣言された佐藤先生ですが、ご自身の技術を「今の若い先生方に教える」にあたり、伝えることの難しさ、現在の学校教育がもたらす様々な課題に直面しているといいます。

 「たとえば、『この骨がわかるか?』と問うと、『鎖骨』という名前であることは専門学校等で皆さん学んでいます。でも『鎖骨がわかる』というのは、単に名前を知っていることではありません。

 鎖骨がどの骨と間接を形成していて、周辺にどういう筋肉が来ていて、どういう神経・血管が流れていて、どのくらいの強度があって、どのくらいの大きさなのか、という話しなのです。単に名前を覚えるのではなく、『骨をスケッチ』するのです」と、佐藤先生は訴えます。

 さらに続けて、「だから鎖骨も触れない。『鎖骨を触って』と言うと表だけを指で触る。『じゃあ鎖骨の裏側を触って』と言うと『裏は触れません』と応える」と、佐藤先生は嘆きます。

 その上で、鍼灸師だからこそできる骨の触り方を佐藤先生は強調します。

 「細い鍼でいいから、鍼の先でつついて感じてみる。『指で触る』ことだけが『触る』ことではありません。鍼灸師は鍼が使えるのです」。

■「笏(しゃく)の如き」胸骨――江戸時代の医師・山脇東洋のスケッチ

 骨を「スケッチする」というのは、日本で初めて人体解剖を行った江戸時代の医学者、山脇東洋(1706年2月1日-1762年9月25日)が行った手法でもありました。

 日本は大宝律令(701年)から江戸時代に至るまで、人体を解剖することは厳しく禁じられていました。他方、医学の分野での実証主義に自らの進むべき道を見出していた山脇は、「人体には五臓六腑というものがある」と古来より信じられていた定説を、字際に自分の目で確かめてみたい、と強く思うようになります。

 果たして1754年(宝暦4年)、京都六角の獄で斬首刑に処せられた刑屍体の解剖が許可されます。嘉兵衛という38歳の罪人の死体は、雑役の手にした刀で体がひらかれてゆくなか、山脇とその門人たちは、その刃先からあらわれる臓器に目をこらし、絵にえがき、さらに入念な観察記録を書き記していきました。

 「まず胸部がひらかれ、そこでは『笏(しゃく)の如き』胸骨を観察し、左右の肋骨9枚を数えた」(『日本医家伝』吉村昭著より)

 解剖が許可されたとはいえ、この前例のない行為は短時間で終わることが求められていました。限られた時間の中でのスケッチは、ひらかれた人体を目の前にした高揚感と、貴重な情報を書き漏らすまいとする極度の緊張感のなかで行われたに違いありません。

『解剖事始め―山脇東洋の人と思想』(岡本喬著) 表紙の絵図は『蔵志』より

『解剖事始め―山脇東洋の人と思想』(岡本喬著)
表紙の絵図は『蔵志』より

 山脇はこの日本初の人体解剖の記録を整理し、5年後『蔵志』と題した解剖書を公刊します。総紙数82枚で、山脇の門人である浅沼佐盈(さえい)によって描かれた4枚の解剖図が付されていました。同書は、日本最初の解剖書としてその後の近代医学形成の一端を担ってゆくことになります。

 「鎖骨をスケッチする」、そして「鍼の先で鎖骨に触ってみる」という佐藤先生の教えは、まさに医学分野での実証主義を追求した、つまり経験的事実に基づいて理論や仮説、命題を検証し、超越的なものの存在を否定した山脇東洋など、医学の先人たちから連綿とつながる作法なのかもしれません。

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