■渋谷鍼灸治療院院長・佐藤直史先生インタビュー
~2年間寝たきりの生活から障害者手帳を返却し鍼灸師へ
――気血の滞りに立ち向かう信念を!
渋谷鍼灸治療院の院長である佐藤直史先生にお話しをお聞きしました。話題はご自身の生い立ち、交通事故で負った大ケガからのリハビリ、施術師としての経験、「東洋医学独自の古典治療に加えて、現代の西洋医学を交えた施術法」とは、次世代の鍼灸師に寄せる思いなど、多岐にわたりました。
目次
- 「夢を持って鍼灸をやりました」と言うために (17.7.24 公開)
- 西洋医学と東洋医学の両方をコントロールするU先生のもとでの体験 (17.7.31 公開)
- 8歳の時の交通事故で2年間寝たきりの生活――リハビリ師がいない時代に柔道で自らリハビリ (17.8.7 公開)
- 西洋、東洋に係わらず医学の可能性を探求した緒方洪庵――「どんな仕事でも同じ。ひとつの理論に決め付けられなくなる」 (17.8.16 公開)
- 「鎖骨をスケッチする」、そして「鍼の先で鎖骨に触ってみる」ことの大切さ (17.8.23 公開)
- 鍼灸とは「人が明日に向かって生きていくための身体の方向付け」、鍼灸師は「気血の滞りに立ち向かっていく信念のある人」 (17.8.29 公開)
2015年4月、佐藤直史先生による第一回講習会が渋谷鍼灸治療院で行われました。参加者は、はり師、きゅう師、そしてあん摩マッサージ指圧師などの国家資格を取得して、現在渋谷区内で医療に携わる若手の先生たちです。
その会の冒頭で佐藤先生は「鍼灸師の現役はマックス45年。その後の15年というのは教育にかけるのが基本」との考えを示しました。
その上で「僕の場合はあと12、3年で現役が終わります。後は教育に専念をしたい。皆さんのような先生方とたまにお会いして、『どうですか?』と話を聞けるような先生になっていくのが希望なんです。それで大体80歳くらいになります」と佐藤先生は語りました。
続けて佐藤先生は「そこまで行ければ『夢を持って鍼灸やりましたね』ということになりますが、そこまでたどり着かないことのほうが多いのです」と、その難しさについても触れました。
「そこまでたどり着かないことのほうが多い」とは、つまりは「自分はそこへたどり着くのだ」という、佐藤先生がご自身に課した目標宣言なのかもしれません。
■「あはき法」の中で始まった鍼灸治療
佐藤先生は、1963年北海道南富良野町に生まれます。18歳の時に鍼灸師になることを知人から勧められ、赤門鍼灸柔整専門学校(宮城県仙台市)に進学。同校卒業後の1984年、21歳の時に上京し、東京都渋谷区にあった道玄坂鍼灸院に勤めました。
その当時の「鍼灸の位置づけ」について、佐藤先生は次のように振り返ります。
「鍼灸は、昭和20年(1945年)の敗戦後、昭和23年(1948年)に施行された『あはき法』という法律の中でやってきた業界でした。つまり、あん摩指圧マッサージと鍼灸は、目の不自由な方の職業として存続させたところから始まったのです」
太平洋戦争後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本の医療の改革を進めていました。その流れの中で、1947年9月23日鍼灸業界の存亡にかかわる大きな問題が発生します。GHQは、厚生省医務局の職員と板倉武博士ら医療制度審議会の6名の委員を呼び、「鍼灸禁止令」を思わせる厳しい要望を伝えたのです。
これに対して、専門家や業界、視覚障害者などが約60日間に亘って猛抗議を行った末に、和解案として昭和22年(1949年)12月20日「あはき法」(あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律)が作られました。(*)
「あはき法」は、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資質を向上し、医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする法律です。あん摩マッサージ指圧師・鍼師・灸師の免許や登録、業務上の義務などについて規定しています。
しかし、鍼灸が置かれていた状況は「あん摩、指圧、マッサージで治療しながら、その治療の中で鍼灸が必要なとこを探るような鍼でした。つまり、鍼灸が中心となる仕事はなかなかありませんでした」と、佐藤先生は当時を振り返りました。
他方、佐藤先生が勤め始めた1980年代前半頃から、多忙を極めていたという道玄坂鍼灸院は、どのような治療院だったのでしょうか。
(続く…)
(取材・文/青樹洋文 ただいま治療中…)
(*)参照資料
「医道の日本」プレイバック!(5)
『GHQ旋風(1947年)』(月刊誌連動企画) [2009.08.03]